昭和54年07月11日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし、乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
とあります腹を立てるよりも、有難いと御礼の言えれるような心になる事が、信心の究極の心の状態だと思うんですね。神様が分かれば分かる程、神様を信ずれば信ずる程、例え盗人だといわれても乞食だといわれても、ね、それこそ神様御照覧の中にいわれている事であり、起きてくる事でありますから、ただ一途に神様を信じ申し上げていけば、そこに言い訳をする事も要らぬ、腹を立てる事もいらん。
段々そういう体験が生れてまいりまして、そういう時程、深い御神慮があるんだという事 が悟らせて頂くと御礼がいえれるようになります。いわば、そう言う様な事がある。そう言う様な忌まわしい、例えば悪口なら悪口をいわれるような時ほど有難く頂いたら、それがおかげになるという事です。もう兎に角、やはりそういう精進にね、本気で取り組まねばいけませんよ。
昨日、お月次祭の時の、お説教のなかに申しましたように、昨日、あちらの龍光徳寺に、あちらの御建築を見学に参りました時に、あのう大きな塔が建っていて、その塔に書いてありました。「心から喜べる人が、幸福」だ。と言った様な、まぁ教えでしょうね。あちらの標語のようなものが書いてございました。だから自分の都合の良いとか、自分が良い目をした時だけ有難いというのなら、これは誰でも致しますから、それではないと言う事ですよね。
真に有難い、本当に有難いというのは、もうそれこそどんな場合であっても御礼のいえれるような心の状態が、人間の幸福だという事です。又、事実そうなんです。それを私共が肉眼を持って見るから、それが難儀な事に見えるのであり、困った事に見えるのであり、もう自分だけが馬鹿を見ると言った様な腹立たしい事にすらなってくるのです。心の目を持ってすると、そこにはそういう問題が大きければ大きいだけね。
又はその悪口なら悪口がその、まぁそれこそえげつのういわれればいわれる程、本当いえば、心の中でしれっと笑いたいような心の状態を頂きたい。それはやはり体験を積んで行かねばだめです。分らんです。はぁこういうのが、こういう修行が有難い。こういう修行の後には、必ずおかげが受けられると言う様な体験を積んでいくから、即有難いという事になるんじゃあないでしょうかね。
確かに、私は人間がどういう場合にあっても有難いといえれる、どういう場合であって も信心の喜びに浸らせて頂けるという時ね。だからね、親先生はあんな事を言いなさるけど、とてもそんな事はとても苦しい時は苦しいと、そんな心が開けるだろうかと。昨日、あちらの会館の方を見せて頂きました所に、別の標語が書いてありましたが、「不平不足が出る時には、修行不足だと悟れ」と言う様な意味の事が書いてございました。これなんかも素晴らしいですね。
自分の心の中に、不平不足やら腹立たしい事やら起こった時には、今あなたは修行不足と悟れというのですね。それで、私が昨日お話を聞いて頂きました様にです、もうそれこそ明日食べるもうお 米がない。今晩炊いてしもうたら、もうこれで米櫃の底をついてしもうたと家内が申します時に、一回、二回じゃございませんからね、そういう事が、その時分はね。それでもおまえ今日まで頂けたじゃないかと、もう兎に角もうお礼を申し上げてもうとにかく、さあ早く休ませて頂こうと。
もうお礼を申し上げて、さぁ休ませて頂こう明日は明日の風が吹くぞというて、あのう言う様な事はもうそれこそ、食べる事だけの事じゃありません、一切の上にその通りでした。ね。「本当に大坪さん、あなたこういう難儀の中にほんなこて有難かっですか」というて、久保山先生が私の話しを聞いて下さり、私がお話しに行く所にずうっと付いてまわっておられました時分にです、久保山先生がそう言う事をいっておられたです。という程しにやはり有難かったです。
結局修行が、一生懸命修行が出来ておる時だから、それが有り難く受けられたのではないでしょうかね。そりゃどうするか、お米がなかなら隣から一升借って来とけ、なんか言うた事はございませんでした。それは、神様を信ずると言う事と同時に、やはりいつもままよの心が出る程しの、信心修行が出けておったからだと、私は思います。皆さんそれこそ今、龍光徳寺のその教えじゃないですけれども、人間が本当に喜べるとい う事ほど幸せな事はない。
それは自分の都合のよい時だけじゃない、いつでもどんな場合でも、喜べる心を願い求めての信心の稽古、その中途過程においてです、不平が起こったり不足があったり、自分だけが貧乏くじを引いとると言った様な心の状態が起こった時に、今あなたは修行不足ですよ、と神様から云われておると思うて、一段と修行に熱を入れたら、それは有難いものに変わってくるんです。
先日から、御本部の教庁から手紙が参りました。開けてみてびっくりしました。もう大変な、そのまぁ言うならお叱りの手紙でした。それがしかし又、私は有難いと思う事は、本当におかげの泉とか、合楽だよりというものを、やっぱり隅から隅まで本部教庁の方達も読んで頂いておるという事を思うたですね。お宅の教会のおかげの泉、又は合楽だよりの中にね、マットグロッソ教会という言葉が出て来るがね、こういう事を教会でもないものを教会というてもろちゃ困る。
教団にとって、大変迷惑な事なんだ、大変なお叱りの事が、今後こんな事がないようにい云うて手紙がまいりました。そん時私が思うたとは、ほほう合楽の新聞てんなんてんなやら読まんち思うとった。読んでもらわんと思うとったら、隅からすみまで読みござるという事が分ってね、何かにこっとしたいような心がおこったです。そん時に。こりゃ私の実感です。と同時にね、これは言い訳をすれば言い訳が出来るんだけれども、もう言い訳はするまいと思いました。だから誰にも話しませんでした。
今度の事は。今初めて、私が話しよるとです。ね。誰にも言うまいと。なら向こうにも言い訳するまいと。私と末永先生が、南米布教の事についてまいりました時に、当時の布教部長であります 宮本という先生と、その次の大久保という先生お二人がです、それこそあちらに行くという事、とにかくあのうサンパウロなり兎に角として、あのうビリグイなど人の行ける所じゃあないと思うておられたんです。それに、そこは私共が行くという事になったもんですから。
その時の二人のお話が、私と四人を交えての話しの中に、もし末永先生、あちらであなたのお子さん達が布教に例えば出る。お道の教師にでもなられたら、もうどんどん本部とは関わりなしに、あのう広めて行って下さいよ。という事がいわれておったんです。だからこそ、私はもうあちらに出社が出けたら、もう本部とは関わりあいはなしに、マットグロッソ教会というてお話もするし、同時に又、あのう言うなら新聞にもおかげの泉にもそれが書いて出ておったという事なんです。
だから実はこうですというて言い訳せんでもいいけれども、はぁ言い訳せんでも今日の御理解頂いて改めてそれを思いよります。もう神様が御承知の世界なんだからそういうと、今度は前の布教部長やら次長の大久保先生辺りに、今度は差し障りに成って来るだろうと思うですよ。だから自分の顔だけをようしようというのじゃあなくてです、そういう時程素晴らしい、そういう時程素晴らしいおかげの頂けれる時だと。私は合楽でいうならば生み出される信心という事は、すぐ生み出されるという事はない。
生み出される為には、ちゃんとそこに時間がかかる、ただその生み出されるおかげというものは、もうそれこそ銭金では買えない、それこそ素晴らしい喜びがね共のうた、喜ばせて貰わねばおれない程しのおかげになってくるという事でございます。ね。だからそこでその言い訳とか、赤面弁慶になって腹をたてたりすると言った様な事はね。いよいよ信心ではない、神様を信じてない証拠だと思うて、そこん所を信心辛抱にいよいよ力を入れて、おかげを頂いていかねばなりません。
もう本当に、いつもの事ながらも思いますけれどね、もう本当にこんなにそれこそ銭金では買えない程しの 宝を昨日は頂きました。しかもこれは三枚も。これは三代金光様の色紙です。御直筆ですよ、ね。それから教主金光様の、今の金光様がまだお若い、昭和二十九年七月二十八日に書いた御理解とある。「生神金光大神 取次ぎの道」とこう書いてある。それからもう一枚は、これは最近のではないでしょうか素晴らしい、読みきらんです。後から読んでもらおうと、こんなすばらしい色紙をね三枚。
銭金では買えないものでしょうが。もうそれこそ合楽の宝です。ならこういう事が、色紙だけじゃあない、それこそ大きな額やら、大きな軸やらいろいろに、もうそれこそ願わんでも頼まんでも、どこからかそういう宝が集まって来ると言う事はです、今日私が申しましたように、もう普通でいうなら、さあ明日食べるものがなかならどうするか、と言う様な時であっても、私はお礼をいうて来たという、私の信心から。
今生み出されていっておるのです。いうならば、合楽の建設なんかでもです。そういう信心から次々と生み出されていって おる様子が今の合楽建設の姿だと、私は思います。だから、皆さん本気でね、いうなら「馬鹿と阿呆で道を開け」と福岡の初代は頂いてお られたそうですが、その馬鹿と阿呆で道を開くという事は、いよいよ偉大なる馬鹿、偉大なる阿呆。
私は昨日、久富繁雄さんに足を揉んでもらいながら、話した事でしたけれど、いま私はあちらが、二階があのう、私の部屋ん所がガンガン工事があっておりますから休まれませんので、あのう二階の方に休ませて頂いておる。丁度休ませて頂いとる上に、あのう養素という、養素拝山という御理解を頂いた事があるでしょう。あの養素という額が、丁度私の頭の上に掛けられてあるんです。その養素という素、養素という事は、いよいよ自分の心が豊かに大きくなってゆく素というのは 拝山です。
いわゆる山を拝むと書いてあります。いうならきつい所、苦しい所を拝んで受けて行くと言う様な生き方が、いよいよ心はいやが上にも肥えていくんだよという御理解なんです。意味なんです。その養素の「素」という字を頂きます。素という字は素直の「す」という字になりますよね。素直という。「繁雄さんあんたも本当に馬鹿ばってんの、私も本当に底抜けての馬鹿ばの」ち、二人で話した事でした。もう私の御用をし始めて二十何年になる。光橋先生が亡くなってからすぐですから。
それは、いろんな事がありましたけれども、それこそ、本当に馬鹿にならなければこげな御用はとても出けんて、それこそ、一辺だって悪い顔を私は見た事がない、繁雄さんに。「私もてぇげな馬鹿ばってん、あんたもてぇげな馬鹿ばの。」と言う事はね、私は偉大なる馬鹿に、、ならせて頂くという事なんです。いうならば、本当に素直心の一つにて、雲の上まで登る道がある、神様が右を向けと言われれば、はいと、右を向いておれる程しのおかげを頂いた。
ここで腹を立てるなよ、それこそ馬鹿と言われても、阿呆と言われても、それこそ盗人じゃと言われても、乞食じゃと言われても、腹を立てなという神様の御教へを「はい。」というて承っておるという事なんだ、ね。そこに私は、いよいよ心は豊かに大きゅうなっていって、全然問題が問題でなくなって、むしろその事に対して、お礼がいえれるような心の状態。そこからそれこそ宝とも思われる程しの、おかげが生み出されてくるという事でございます。
どうぞ。